神様に会いにいく

【連載エッセイ】 Vol.15 2016年をふりかえって


早いもので、2016年最後の連載になりました。

連載が始まったのが2016年9月6日。そこから4カ月も経っていないのに、ずいぶん遠くまで旅をしたという感じがする。何年も海外旅行に行ってあちこちの諸国をめぐって帰ってきたような気分なのです。

実際に、12社の神社を回り、それ以上の神様に会ってきたわけだから、訪れた場所は結構多い。

いろんな発見があったし、どの神社も訪れてよかったと思えるところばかりだった。

でも、そのほとんどがわたしの家からはバスや電車で簡単に行ける場所だった。だから、単に神社を取材しただけだったら、こんな大旅行をした気分にはならなかったと思う。

いったい何が起こったのだろう。

古事記や日本書紀が書かれてから約1300年。神話を導き役にして神社をめぐってきたわたしは、神社と同時に日本の1300年の歴史を旅してきたのだと思う。

神様からたどっていかなければ訪れる機会がない神社もあったし、よく訪れていたのに初めて発見することがあった神社もあった。

神話を読んだだけでは、遠い昔の自分とは切り離された関係ない話としか思えなかっただろうけれど、実際の神社をめぐることで、物理的に、かつ強制的に、神話と日常がつながった。それは、わたしにとって大きな出来事だった。わたしが歴史と無関係では存在できないことをありありと実感できたからだ。

古事記が生まれた1300年前、わたしの祖先もどこかで生きて、生活を営んでいた。それは、よく考えたら当たり前のことだけども、そういうことを当たり前のことだと認識できなくなっていた。わたしはずっと、歴史上の出来事を、縁もゆかりもない観光地を物珍しい思いで眺めていた。古い建造物も、長い年月残ってすごいねえと感心するけれど、立派な山や川を見るのと同じ思いで眺めていた。そこに関わる人々と自分とのつながりを考えたことがなかった。

だけど、今回の連載を続けていくうちに、そこに、かつて、わたしと血がつながった誰かが確かにいて、今のわたしたちと何も変わらない感性を持って生活し、いろいろな思いを抱えて生きていたということをありありと感じるようになった。

なんだかそれは、恐ろしいような感覚だった。

自分の背中から紐が出て、太古の膨大な過去にくくりつけられたような感覚。
自分の中から何か知らないものがぞろぞろとあふれ出てくるような、不気味で荷が重い感覚。
自分の体の中にあまたの人間が住んでいる。自分が知らないたくさんの経験と英知が既にわたしの中にインプットされて、ふたのついた箱の中で眠っている。

そのふたを開けたら、わたしは今と違う人間になるのではないだろうか。いや、違うというよりは、本来の姿に戻るのではないか。わたしの体や考え方やDNAという、わたしの命を構成するものほとんどは、もう、わたしが生まれる前に決定している。わたしが自分で変えられることなんて、ほんのわずかという気がする。

そんなことを考えはじめたわたしを支配したのは無力感ではなく、安心感だった。大きなものに包まれたような気持ち。まるで、家族と一緒にいるときのような。

もっと体や歴史に耳をすませてみたい。
それは神様の声を聞くことと同じなんじゃないだろうか。

連載を始めた時よりは、何かがわかってきた気がするけれども、まだまだわからないままでいたい。このまま、神話と日常を行き来する旅を続けていたい。

これからも連載は続きます。心と体を透明にして神様に会いにいこうと思います。

2017年もよろしくお願いします。
どうぞ、よいお年をお迎えください。


この記事を書いた人

寒竹泉美

小説家・医学博士

寒竹泉美

岡山生まれ、広島育ち。京都に住んで15年が過ぎました。ペット可の古い貸家で白黒猫のモーちゃんと夫と、マイペースに暮らしています。

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