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【月刊レポート】 Vol.6 追分・寂光寺の大小15の仏が刻まれた「藤尾磨崖仏」


京阪京津線「追分」駅から北へ徒歩15分、京都府山科区との境目に当たる滋賀県大津市の藤尾地域は小川沿いに住宅が点在するのどかな風景が広がります。ここは古来、京都山科から大津三井寺へ抜ける「小関越え」という街道があった場所。三井寺へお参りする人々で賑わっていました。

そんな往来の人々を優しく見守り続けた「藤尾摩崖仏」が今回の主人公です。

地図上では国道161号線(西大津バイパス)と湖西線(トンネル内)が交わる辺り、藤尾奥町にある寂光寺は近年改宗した日蓮宗の寺院。コンクリート造りの立派な本堂が目を引きます。

このお寺はもともとは「山田堂」あるいは「観音堂」と呼ばれ、小関越えをする人々がここで清水を飲んで一休みする場所でした。
そこにあったのが藤尾磨崖仏。ひと休みがてら手を合わせ、道中の無事を祈願していたのでしょう。最初は露仏だったようですが、自然と藁葺き屋根の小屋ができ、お坊さんが住み管理をするようになったのが寂光寺の前身です。
本堂には非公開ですが、山田堂に伝わった聖観音像もあり、鎌倉時代の慶派の作と言われています。

磨崖仏は本堂ではなく、北側にある昭和59年まで使われていた旧本堂にいらっしゃいます。

単層ながら二重屋根の造りで、時代劇で登場する寺子屋のような佇まいです。

引き戸を静かに開け、靴を脱いで道内に入ると中央にドンと構える藤尾磨崖仏が目に飛び込んできます。
横幅は566cm、高さは278cm。山から突出した花崗岩を垂直に切って、その崖に仏さまを浮き彫りしています。

中央には中尊・阿弥陀如来が大きく彫られ、左に地蔵菩薩立像、右に観音・勢至菩薩立像が並び、さらに右に釈迦如来立像が少し小さいながらはっきりと刻まれています。
そしてその上下左右にも隙あらばと小仏が並び、一枚岩に大小合わせて15体の仏像が彫られている非常に珍しい磨崖仏です。

中尊の阿弥陀如来像です。高さは148cm、手は定印を組み、左右対称の衣紋の流れは簡易ながら深く刻まれ、引き締まった厚みのある上半身をしています。

この阿弥陀仏の周り、梵字が並んだ光背の縁に「延応貮年 庚子 二月二日供養」の文字が刻まれていることがわかり、1240年(鎌倉時代)の建立だったことが判明しましたが、柔らかい顔立ちや肉髻(にくけい・頭のコブ)の低さが平安時代末期に流行した仏像の特徴と似ていることから、もう少し前に彫られたのではないかと推測されています。

阿弥陀如来と同じ時期、平安時代末期頃に彫られたと思われるのが左隣の地蔵菩薩像です。
柔和な表情とテンポよく刻まれた衣紋や厚肉に彫られているところが似ていることから同一人物の造仏ではないかと思われます。

それに対して阿弥陀如来の右側の観音菩薩(写真左)と勢至菩薩(写真中央)を見てみると、衣紋の彫り方と像の厚みなどに違いが見られるため、こちらが1240年に付け加えられ、先述の阿弥陀如来光背に刻まれた「供養」の法要が行われたのではないかとされています。

確かに地蔵菩薩と観音・勢至菩薩を見比べると、下に末広がりにスーッと伸びる衣紋や足の開き方も全然違いますね。

実は阿弥陀如来の両ザイドにスタンバイするのは本来この観音菩薩と勢至菩薩です。
阿弥陀三尊形式といい、両サイドの2尊は阿弥陀如来をサポートする役目を担っているのですが、寂光寺の阿弥陀如来の左側にはなぜか地蔵菩薩が彫られています。

平安末期に単体で阿弥陀如来を、同時期に左横に地蔵菩薩を彫っていたので、鎌倉時代になって空いていた右側のスペースに本来のサポート役の観音・勢至菩薩を並べて付け加えて変則型の三尊形式にした、とすると辻褄が合いますね。

では、なぜ一番右にはさらに小ぶりな釈迦如来が彫られたのでしょう?

さらに周囲に彫られたあと10体の小仏は??

まだまだ解明されてない謎多き磨崖仏です。

この藤尾地域は織田信長の時代に戦禍に遭い、磨崖仏も被災したようです。釈迦如来の上部が黒くなっているのはその時の火災の跡だそうです。

幾多の危機を乗り越えて今に伝わる寂光寺の「藤尾磨崖仏」。
拝観は必ず事前に予約をして伺うようにしてくださいね。
すらっと長身でイケメンの若いご住職が、丁寧に説明をしてくださいますよ。

施設情報

寂光寺

寺院

寂光寺

この記事を書いた人

政田マリ

仏像ナビゲーター

政田マリ

月に一度素敵な仏さまをご案内する『月イチ仏像ガイド』主催。京都の魅力、仏像の魅力を世に広めるために仏像ガイドとしての活動しています。日本仏像検定A級。年季の入った『カープ女子』です。

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